永遠
[st-kaiwa2]次元上昇すると女装者はA面もB面もへちまも無くなっちまうという話だ♡[/st-kaiwa2]出典元:『あの世に聞いた、この世の仕組』https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/33e877d2e1989acbeed33471f938917c
はーい。
またまたぶっ飛んだお話をしまーす。
とても難しく見えてしまうかもしれませんが、この話、ホントは全然難しくはありません。
逆に、あまりにもシンプルすぎるからこそ把握できない話なんです。
例の「aha!」という気付きを促すために、わざわざ反対側の「難しそうに見える方」からアプローチしているだけなんです。
ですので、どうぞアタマを柔らか~くしてご覧ください。
結局のところ、「時間」は思考が作り出す錯覚です。
実際は「過去」も「未来」もなく、ただ「永遠の今」が存在するだけです。
今日は、この「永遠」のニュアンスを掴むチャレンジをしてみましょう。
「永遠」というフレーズに、アナタはどんな意味を見出しているでしょうか。
それを「途方もなく長い時間」というニュアンスで捉えているのであれば、間違いです。
「永遠」の本来の意味は「時間を超えて存在すること。また、そのさま。」となります。
だから「永遠」は「時間」ではないのです。
「永遠」は「時間」ではありませんから、そこには「始まり」も「終わり」もありません。
般若心経に登場する「不生不滅」はこのことを指しています。
私たちの存在は時間を超えた「永遠」ですので、そこには「始まり(誕生)」も「終わり(死)」もないのです。
そういう意味では、「無限」と非常に近いニュアンスかと思います。
さて。
一度ここで「過去」と「未来」という概念は置いていきます。
「時間」の事は一度忘れて、アタマを切り替え「無限」を考えてみましょう。
「無限」は、記号で書くと皆さんおなじみの「∞(インフィニティ)」ですね。
そこには始まりもなければ終わりもない。
これに「次元上昇」という概念を付け加えてお話を続けます。
平面(2次元)を、立体(3次元)に「次元上昇」させ、さらにそこに「永遠」という要素を加えると、『メビウスの帯』が出来上がります。
表を辿っていたつもりがいつの間にか裏になっちゃって… あれ!?
っていうアレです。
そこには「始まりと終わり」や「表と裏」といった「二元性」が無くなってしまいます。
実は、この「次元が上がるとともに二元性が消える」という、このことが「アセンション」なんです。
始まりも終わりもない、表も裏もない、永遠の世界。
一度その世界を垣間見ると、幸(表)も不幸(裏)も「永遠」というメビウスの帯の中に内在された、本当は2つに分けることの出来ない一つのものということが理解できます。
一般的な解釈では「幸福」と「不幸」は対極にある「まったく別のもの」という解釈になってしまいますが、真実はそうではないんです。
メビウスの帯と同じように、幸福を辿っていくと不幸に行き着き、それをさらに進むと幸せが現れて…という、始まりも終わりもない無限ループになっているんです。
なので仏教では「幸福」と「不幸」は対極にあるものではなく、「同質のもの」という立場を取ります。
『陰陽道』もこれと同じ考え方で、この「永遠」を「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」と表現しています。
「幸せ」「不幸せ」は、実は『同じもの』なんです。
「幸せ」をある地点で捉えると「不幸」になり、「不幸」もまた、見方を変えると「幸福」になってしまいます。
それをさらに引いて見てると、そこには幸(表)と不幸(裏)を分ける境界線は見つからず、「物事(メビウス)はただ、ある」ということになるんです。
どうでしょう? 話についてこれますか?
「わからない」と言う方は、一度ここでじっくり考えてみてください。
ついてこれる人はもう少し先に進んでみましょう。
2次元から3次元にアセンションして現れたのが「メビウスの帯」でした。
では、我々がいるこの3次元世界から4次元・5次元にアセンションしたら、どんなものが現れるのでしょうか。
それが「クラインの壺(Klein bottle)」と呼ばれるものです。
「メビウスの帯」が2次元のテープ状のものをひねり、表をたどっていくとそのまま裏に行き着くようにしたのに対し、「クラインの壺」は3次元のチューブをひねり内部をたどると外部に行き着くようにしたものです。
「メビウスの帯」では「表と裏」の区別が無くなりました。
それと同じように、「クラインの壺」では「内側と外側」の区別が無くなっちゃうんです。
自分の「内側」深くをずーっと辿っていくと、宇宙という広大な「外側」に出てしまう。
そして、内側も外側も含めた、その存在の全ては一つのものであるということに気付くんです。
始まりも終わりもない、表も裏もない、永遠の世界