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荻野吟子のピンチをチャンスに変える名言*半生や映画・おすすめの本

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スピリチュアブレス 

荻野吟子 名言

現在、「明治の女子教育史散策」執筆中の元国語教師ゆうこさんに、『荻野吟子(おぎのぎんこ)』さんの名言と名言の背景にある半生やおすすめ本を紹介してもらいます。

『新渡戸稲造の至言』共著。

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明治新政府は欧米に追い付くように近代化を急ぎました。しかし、「学制」や「医制」などさまざまな制度の中で女性は置き去りにされていました。そうした中で、女性に閉ざされていた道を切り開いたり、思考を転換したり、海外に活躍の場を見つけたりして活躍した女性たちがいます。

今回は「荻野吟子(おぎのぎんこ)」のピンチをチャンスに変えるきっかけになった名言や半生を紹介します。

荻野吟子の名言

「婦人科の病気を男子の医者に診察してもらうことの辛さから、女医の必要を痛感せずにおられませんでした。」

~荻野吟子(おぎのぎんこ) 
医術開業試験合格女医第1号~

これは、吟子が品行の悪い夫から性病をうつされて、大学東校病院(現東京大学医学部付属病院)で2年間治療を受けた時に思った言葉です。吟子19歳ころと思われます。

この病気は時おりぶり返し、生涯吟子を悩ませました。医者になって、自分と同じように苦しむ女性たちを救いたいと決意しました。

荻野吟子の半生

荻野吟子 名言

・男装して医学校で学ぶ

吟子は、1851年3月、武蔵国幡羅郡(現埼玉県熊谷市)の名主、父荻野綾三郎と母嘉与の五女として誕生しました。望まれて満17歳の時、上川上村(現熊谷市)の名主稲村貫一郎と結婚しました。ほどなく夫から性病をうつされ子どもを産めない体になり、躁うつ病の名のもとに婚家から離縁されました。

幼少から学問好きだった吟子は、22歳で上京し、漢学や国学を学びました。さらに1875年に開校した東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)に入学し、4年後に卒業しました。

卒業式の時、同校の幹事永井久一郎から将来の目標を聞かれ、『医学を修めるため大学に入りたい』と答えました。しかし、当時唯一の大学である東京大学は女子に門戸を開いていませんでした。永井は医界の有力者石黒忠悳(ただのり)を紹介してくれました。

私立の医学校も『女は困る』と言います。石黒の尽力により、なんとか下谷の好寿医院に入学が許されました。吟子は高下駄をはき、袴をつけ、髪は断髪にして男性と同じ装いで通いました。

周囲の反対をおしきって入ったため、仕送りがなく、海軍兵学校教官の家に住み込んで夫人の家庭教師をしたり、いくつかの家庭教師を掛け持ちしたりして学資を稼がなければなりませんでした。困難を乗り越えて1882年10月、好成績で好寿医院を卒業しました。

・女ゆえに… 立ちはだかる開業試験の壁

明治時代前までは、看板を上げればだれでも医者になれましたが、漢方医師が大半でした。明治新政府は西洋医学に基づく制度を整える方針で、1874年に「医制」を公布し、翌年医師の試験制度を設けました。

吟子が医学校を卒業した頃は、東京大学医学部と一定の条件を備えた医学校の卒業生、欧米の大学医学部などを卒業した者、従来から開業している医者には無試験で免許が与えられました。新たに開業する場合は、医術開業試験に合格しなければなりませんでした。

吟子は医術開業試験の願書を提出しましたが、『女の受験は前例がない』として願書を受けつけてもらえません。再度願書を出しても再度却下されました。苦労して学んだのに女ゆえに試験を受けさせてもらえないとは…。悔しさと憤りがこみあげました。制度の改良を求めて奔走しましたが叶いませんでした。吟子は窮地に立たされました。

・外国へ行ってでも…

荻野吟子 名言
国内で叶わないなら外国へ行って資格を得ようと覚悟し、以前に家庭教師をした実業家高島嘉右衛門に相談しました。高島は、『その覚悟があるなら、過去に女医が存在した証拠を示して、もう一度あたってみてはどうか』とアドバイスしました。

・文献を調べる

吟子は、以前に国学を学んだ井上頼圀(よりくに)に再び入門し、史実を調べました。その結果、『令義解(りょうのぎげ)』という書物に、「15歳から25歳までの女を30人選んで、安産術、小外科、針灸術を口授せよ。毎月と年の終わりに試験を行う。修業年限は7年。」という記述がありました。また、『続日本紀(しょくにほんぎ)』という書物に、この女医養成の専任教授である「女医博士」(おそらく男性)が722(養老6)年に置かれたことが記されていました。

『令義解』は、古代の法典『養老律令』の注釈書です。『養老律令』は、701年に編さんされた『大宝律令』とほとんど同文です。つまり奈良時代以前に「女医」を養成する国立の女医学校が存在したのです。

・石黒忠悳、衛生局長を説得する

『女は困る』という衛生局長の長与専斎に、石黒は『医術開業試験に女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。』などと、何度も説得してくれました。

吟子は、資料と高島嘉右衛門の紹介状を携えて、長与を訪ねました。長与は『学力がある以上は開業試験を受けることを許可して差し支えない』と言ってくれたのです。

・女医第1号誕生

こうして、1884年9月、初めて女子に医術開業試験の受験が認められ、吟子を含む4名の女子が前期試験(基礎学科)を受けました。この時に合格したのは吟子だけでした。吟子は翌年3月後期試験(臨床学科など)にも合格し、医術開業試験合格女医第1号となりました。34歳でした。

1885年12月本郷湯島で荻野医院を開業しました。日本最初の女医として新聞・雑誌が書きたてたため、もの珍しさもあって繁盛しました。まもなく手狭になり、下谷黒門町に移りました。吟子の評判に刺激されて女医志望者が増えたのは言うまでもありません。

荻野吟子に関するおすすめの本

『花埋み』(はなうずみ)

医師であり、直木賞受賞作家でもある渡辺淳一が、荻野吟子の生涯を描いた小説です。1970年に河出書房新社から出版されました。新潮社、角川、集英社、講談社の各文庫に入っています。

荻野吟子の映画

『一粒の麦 荻野吟子の生涯』

(山田火砂子監督、若村麻由美主演)が全国で順次公開されていますが、新型コロナ禍により、2020年5月より延期となっています。公式サイト等でご確認ください。

映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』公式サイト (gendaipro.jp)

熊谷市立荻野吟子記念館

荻野吟子 名言
〒360-0223 埼玉県熊谷市俵瀬581-1 ☎048-589-0004
開館時間:9時~17時
休館日:月曜日(祝日開館、翌平日休館)
アクセス:JR熊谷駅から「葛和田行」に乗車し、「上土手」で下車(約30分)。
徒歩約20分。
※開館に関しては記念館にご確認ください。

まとめ

人生には何度かピンチが訪れるものです。そのピンチをいかにチャンスとして生かせるかが大きな分かれ目となります。

吟子は、夫に性病をうつされて離縁され、辛い闘病生活のどん底から、いくつもの困難に打ち勝ち、未開の女医の道を開拓しました。

皆さんももしピンチに陥ったら参考にして、たくましく蘇りましょう。

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